ネパール緊急屋根支援のご報告と御礼 2015・7月
この度はネパール大地震の被災地へご支援いただきありがとうございました。
ラマさんのネットワークで、私たちの支援を本当に必要にしているところに届けることができました。
今回の緊急支援に、皆様から暖かいご支援をいただいたこと、心から御礼申し上げます。
引き続き地震支援は続けてまいります。今後もご協力よろしくお願い致します。
ネパール屋根支援プロジェクト
大地震に遭遇したラマさんが訴えた、今ネパールに必要なもの・・屋根
この度はネパール大地震の被災地へのご支援いただき、ありがとうございました。
ちょうど雨季い入る6月12日、皆様からの募金を携えてネパールへ行ってまいりました。
ヒマラヤ山麓のダプスン村の43軒分すべてに屋根を
今回皆様からご支援のおかげでトタン板を充分に確保することができました。
ヒマラヤ山麓にあるシンドゥパルチョーク群イチョク区ダプスン村の43軒分
すべてにトタンを支援してきました。
カブレ地区の子どもたちにレインコートを
ラマさんの故郷、カブレ地区の鉛筆支援をした小学校を訪問。建物は倒壊し、テントで
授業が行われていました。子どもたちに日本から持参したレインコート120枚を手渡しました。
今回役に立つかと思い日本から持参してきたものー軍手24組、結束バンド、布ガムテープ、ゴミ袋等々。軍手はトタンで配りましたが、それ以外は便利だと思っていたのに、なくてもいいものでした。彼らは工夫してトタンを束ねていたし、むしろ私の手にしているものが、すごく異質に感じられました。
仲良くなった子供達と日本から持って行ったシャボン玉で遊んだ時もやはり容器はプラスティック。異質と感じたのは、この自然豊かな山岳地帯にはどう考えても馴染まない物だったから。村には土に還らないものを持ち込んではならなかったのです。私達の暮らしの中にプラスティック製品がいかに多いものかと気づかされました。郵便ポストさえない村に、ゴミの回収などあろうはずもなく。支援する立場から、今後気をつけなければならないこと、現地へ行って見えたことでもありました。
山奥とは一転、騒々しいカトマンズの街は自動車やバイクが多い埃っぽい街。都市でもヤギを散歩する姿、野良犬や牛の姿が道路に。この国では女性のほとんどが長い髪に民族衣装だったのも印象的で素敵だった。
ここでは1日の半分が停電だが、新しい家には水やプロパンガスもある。
それぞれの家庭でスパイスを調合して作るダルスープ(豆のカレー)がほぼ一般的な食事ご飯にかけて食べる。
しゃぶしゃぶしたカレーをみんな器用に手で食べるのには驚き。
街中には寺院が点在、小さなものから世界遺産規模のものまで。
ちょうど震災後2ヶ月だったが、観光スポットの寺院はくずれた瓦礫が残されたままで、建物は木の棒をつっかえにした状態で入場が再開されたばかりだった。
日本ではこんな危険な状態で近づくことすら考えられないが、バクタプルの街は廃墟のテーマパークのようだった。
カブレ郡チュカ村から車で3時間ほどでした。といっても想像を絶するオフロード!
なぜか戻る私たちの車(7人乗り)にドライバー除いて大人11人子ども3人が便乗?
山道をドライバーの激しいシフトチェンジとクラクション(鳴らしながら追い抜く)、揺れる揺れる、きつい・・・。
3時間・・・。
ラマさんの故郷はすばらしかった。村の方々によくしてもらいました。
トタン支援したシンドパルチョークでは昨日も余震がありました。
ネパールの被災地域は予想以上に広範囲にわたり、復興までには気が遠くなりそうな時間がまだまだかかりそうです。
これから4か月におよぶ雨期に入るので大変ですが、山岳地帯の人々は冬の寒さも心配です。
今回、支援先はラマさんの村よりもっと被害の大きく大変なところ、しかも支援が届いていない地域を優先したいというラマさんの意見で、シンドパルチョーク郡ダプス村に決定。
イチョウ区ダプス村は現在土砂崩れが危険なので、近くの広場に43世帯の村人全員が避難中。もともと家がないところなので、ビニールシート、テント暮らしをしているらしい。らしい、というのは避難場所まで道がないため行けないから。
それで避難場所から約束の場所まで片道3時間も歩いて支援物資を取りにきてもらいました。
30人ほどの人たちが待っていてくれました!! みんなの気持ちがこの1枚1枚になって、ここまで来ました!
トタンは12フィートの大きいサイズを360枚支援できました。村人全員に雨期がしのげるだけ十分あります。
1枚1枚がみなさんの暖かい募金の姿です。トタンは雨期の後も家再建に十分使っていただけます。
これからトタンを避難場所に往復6時間もかけ、何往復もして、運んでもらわなければなりません。重労働です。
現地まで運んであげられたら、どんなに楽なことでしょう。でも不可能なのです。
支援物資の仕分けが終わり、ダプス村のリーダーから感謝のことばをいただきました。
この支援物資の後ろにはみなさんを心から応援している日本の支援者がいることを伝えました。
喜んでもらえたのは嬉しいですが、まだまだこの先の困難な生活が続いていくだろうことを考えると複雑な気持ちです。
家を失ったばかりか、今後もももとの村には地盤が悪いので戻れないそうです。
とにかくがんばってほしい!みんなの顔を見ていると何度も涙が出そうで必死にこらえました。
15日朝カトマンズを出発。朝には雨がやみ、暑い一日に。
出発して1時間ほど走り小さな山をのぼると、脇の家はほとんどが半壊か全壊。山頂の集落ナンクレヴァレーはかなりひどかった。そのあたりから私たちのめざすシンドパルチョークに入る。99%が全壊。まさにその通りでした。
家は壊れているけれど、まわりは田んぼや畑。トウモロコシも大きく育っています。山間は棚田で、麦やお米、豆が採れるらしい。幸いに食べることはなんとかなるのでしょう。
とにかく道は地道に水たまりだらけ、小さな地滑りのあとも多いので、四駆でなければ無理です。地震でなくても雨期にはそうなるらしい。目的地に12時に到着。
取り残されている人に、待っている人に
ラマさんの故郷カブレ郡の家々も被害を受けていると聞いていますが、ラマさんはもっと深刻な被害を受け、支援の手が届いていない村への支援を希望しています。現地で情報を集めた結果、その思いにふさわしい場所が決まりました。
支援先地区は ネパール、シンドパルチョーク郡。 今回と2回目の地震で被害の最もひどかった地区。カトマンズの中心から車で約3時間。その中のイチョク区ダプス村に決定。
採用理由
ダプス村本来ある場所が土砂崩れで危なくて戻れない。
その移住先全46軒分に屋根のトタン支給ができます。
現在は最初に支給されたビニールシートや家の一部を利用したり、
これから4ヶ月くらい雨季だとか。ちょうど今雨季に入ったところです。
(以下ネットからの情報ー ヒマラヤ山中に位置するシンドゥパルチョーク地区は、ネパール大地震の被害がひときわ大く、起伏の激しい凸凹な土地に点在する寒村への路は、曲がりくねった狭隘路しかないため、救援部隊、援助団体が近くまで駆けつけたものの、援助活動は難航している。災害後、ネパール政府による怠慢な対応のせいで、シンドゥパルチョーク地区は取り残され、生存者の間では、政府に対する幻滅が渦巻いていた。)
6月13日
6月12日深夜関空出発。バンコクからカトマンズ行きの飛行機はすいていました。無事にカトマンズ到着。みなさんの応援のお気持ちを携えて…。
ところが日本から持参の支援物資のレインコートがいきなりチェックを受ける。関税をとられそうになり、中身を見せてラマさん必死に説明。ラマさんの力で無事にパス!手荷物の支援物資に関税とは…。
空港から20分ほどの移動途中、道路は大丈夫なものの公園に集合テントが見られました。
ご支援くださっているみなさま、ご協力と応援、ありがとうございます!
これからネパールに「屋根」を届けに行ってきます!
今回、緊急支援として雨季までに現地に「屋根を」と活動してきました。最初「簡易ハウス」を考えておりましたが、トタンの品不足とそれに伴う高騰で、「屋根用トタン板支援」に変更して活動を行います。
私たちは小さなグループなので大掛かりな支援活動はできません。
ラマさんの祖国への思いを形にして届けたい。そのように願い、応援する人たちによって、できる範囲の小さな支援を行ってきました。
私たちはラマさんを通して直接届ける支援、顔の見える支援を行います。
支援が必要なのに支援が届いていない被災者、自力でどうにもできない被災者、ラマさんだからこそ、そのような方に届けてもらえると思います。
では、行ってきます。
2015年5月27日
神戸新聞朝刊にて掲載されました。
5月25日
立命館大学理工学部建築都市デザイン学科の宗本晋作准教授に簡易ハウスプロジェクトのアドバイスをいただきに行ってまいりました。
貴重な時間をさいて親切に相談にのっていただきました。
ありがとうございました。
ラマさんどうして屋根?「もうすぐネパールは雨期なんですよ」
支援といったら食料は?「村は時給自足だからなんとかなります」
電気、ガス、水 ? 「もともと充分ではないから、不自由ではない」
簡易ハウスでも高いんじゃない?「『土のう』だけで作るアースバッグ工法のアイデアを新しく教えていただきました。土のう袋でできる家だそうです。」
私もまっさきにブルーシート届けに行きました。レンガの家が壊れて、屋根がなくなり・・・雨期までになんとかしたいのです。
2915年5月20日
ラジオ関西「じかんです!林 編集長」生出演
聴視者の皆さんに支援を呼びかけました。
左写真クリックでラジオ関西ブログへ→ポッドキャストから視聴できます。
5/20番組内 4′30″〜
2015年5月18日サンテレビ
「ニュースポート」出演
当時の様子を語ります。
冨田報道記者と。